2009年06月29日

韓国の経済は危機に瀕した

1997年のアジア通貨危機により、韓国の経済は危機に瀕した。発足したばかりの金大中政権は国際通貨基金の支援とその経済政策を受け入れ、新自由主義的傾向をもつ構造改革政策によって危機を乗り切った。この時期、首相は金大中と立場を異にするものの同じく経済通と呼ばれた金鍾泌であった。IMF支援の際、日本は韓国に対するIMF緊急支援570億ドルのうち百数十億ドル分を負担した[5]。
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2003年に盧武鉉政権が発足した。盧武鉉政権は当初、歴史問題に言及しないと発言するなど、両国関係は良好であるかと思われたが、国内においては日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定するなど一貫して反日的な政策を取っていた。盧武鉉政権は日本時代の親日派問題の清算として、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」及び「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する人権蹂躙とも取れる法を制定し、実際に「親日派」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収する(2007年8月13日 読売新聞)など適用がはじまっている。

ほどなく、両国の関係は、島根県の「竹島の日条例」の制定や日本の国連常任理事国入りを目指した動き、靖国神社や歴史教科書に対する内政干渉問題もあり悪化した。民間交流のあり方も一様ではない。韓流ブームも影響して民間交流は活発化しているかに見える一方で2004年から2005年にかけては日本に対する抗議デモの影響により交流行事を韓国側からキャンセルするケースがいくつか出た。

2009年06月12日

遠隔転移がある場合や、手術や局所療法

遠隔転移がある場合や、手術や局所療法(PEIT、RFAなどの経皮的局所療法や肝動脈塞栓療法)が行えない場合には全身化学療法が行われる。肝細胞癌においては、これまで有効性が確立された抗がん剤がなかった。しかし、2007年米国臨床腫瘍学会で報告された臨床試験において、経口マルチキナーゼ阻害剤であるソラフェニブ(商品名:ネクサバール)の投与が生存期間を延長させることが示された。本邦においても、2009年5月20日に切除不能な肝細胞癌を効能・効果として承認された。ただし、上記の臨床試験では、Child-pugh分類Aの肝機能良好な患者を主な対象としており、Child-pugh分類Bの患者への投与は慎重な対応が望まれる。さらに、Child-pugh分類Cの患者に対しての投与は推奨されていない。クラシック音楽
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放射線療法 [編集]
骨転移の痛みを和らげる目的で施行され、一定の効果が得られている。 また2005年現在では陽子線や重粒子線による局所療法が臨床応用されており、臨床試験が進行中である。

転移 [編集]
肝内転移
血行性に門脈から転移する。
肝外転移
血行性、リンパ行性に肺、腹腔内臓器、骨などに転移する。

予後 [編集]
肝切除もしくはPEIT・MCT・RFAが可能であった場合の予後は比較的良好で、5年生存率は50?60%である。しかし、これらの治療の適用にならなかった場合の予後は悪く、5年生存率は10%程度にすぎない。肝細胞癌は慢性肝炎を母地として発生するため、ひとたび治療が完了してもその後に新たな癌が発生してくる確率が高い。癌の発生を早期に発見し、繰り返し有効な治療を行うことができるかどうかが予後を左右する。 またインターフェロンによる肝臓癌の再発予防も研究されている。

2009年06月07日

化学兵器(かがくへいき)とは

化学兵器(かがくへいき)とは、毒ガスなどの毒性化学物質を使い人や動物に対して被害を与えるために使われる兵器のこと。化学兵器禁止条約では、毒性化学物質の前駆物質や、それを放出する弾薬・装置も含むものとしている。

これらの兵器では、一般に良く知られている物ではサリンやVXガス・マスタードガスまたはイペリットなどが挙げられる(種類に関しては毒ガスの項を参照されたし)。初期の物では主に反応性の強い薬品から発生するガスであるが、後に生物の代謝機能に悪影響を与える物質などが利用されるようになった。これは揮発によるものだけではなく、液体が噴霧された霧状の状態を含み、今日の毒ガス兵器と呼ばれる物は、常温下に於いて液体(粘度の高いものを含む)の物が多い。

古くは有害で人体を蝕む化学反応を起こす物が利用されたが、近年ではサリンなどに代表される神経性の毒物(少量でも呼吸や心拍の機能を含む運動機能や感覚機能に甚大な影響を与える)が使用された。特に神経性の毒物では、神経系を信号伝達を不可能にして破壊する事から、予後が悪く後遺症が残りやすいとされる。また人体の代謝機能を破壊し、徐々に人体を蝕む薬品もあり、即効性は無いものの致死性のこれら兵器では、予後は極めて悪い。
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主に反応性の強い薬品では、太陽光に含まれる紫外線などの働きにより、短期間で無害な物質に分解するとされるが、中には長期間の汚染を発生させ、核兵器程ではないにせよ周辺環境を悪化させる物もある。無毒化処理には強酸性や強アルカリ性の薬品と反応させたり、強力な紫外線照射や電流といったエネルギーを与え、分解又は化合を促す事で無毒化させる。または大量注水して安全濃度にまで薄めるなどの方法も取られるが、単純に薄めた場合は有害な汚水が大量に発生する事もあり、広域土壌の除染には向かない。ただしサリンは加水分解によって無毒化するため、水の散布が有効である。

2009年04月24日

海流

オホーツク海表層には反時計回りに流れる海流があり(オホーツク環流)、カムチャツカ半島から千島列島北部の海峡を通って、カムチャツカ海流(広義の親潮)の一部が流入する。これらの一部が千島列島の海峡から流出し、千島列島の太平洋側を南下する東カムチャツカ海流と交じり合って道東沖から三陸沖に分布する狭義の親潮水を形成している。日本海とは、間宮海峡にアムール川河口が存在するために海水の交換はほとんど起こらないが、宗谷海峡から対馬暖流の続流である宗谷暖流が流入し、北海道沿岸を流れている。樺太の東部には東樺太海流が流れている。

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アムール川(黒龍江)の水が流入する河口付近では塩分の濃度が低く、密度成層が強くなるため冬季には厳しい寒気団であるシベリア高気圧の影響も受けて海氷が形成される。河口付近以外の海域北部でも12月から結氷が見られ、最盛期の2月にはオホーツク海の7から8割が海氷で覆われる[1]。 日本海北部とともに、オホーツク海が北半球海氷が分布する海域で最も低緯度であるのは、このアムール川の河川水の流入によるところが大きい。風と海流(東樺太海流)に運ばれた海氷は流氷と呼ばれ、樺太東岸に沿って南下し、時には太平洋岸の釧路市付近まで到達することがある。

オホーツク海凍結前の寒気による海洋表層の活発な鉛直混合や、海氷などによって沿岸から運ばれる砕屑物の影響で植物プランクトンの繁殖に必要な栄養塩が豊富である。このため漁業資源の宝庫で、サケ・マス・タラ・ニシン・サンマ・カニ・アマエビ・ホッカイエビ・ホタテガイ・コンブ・カキが獲れる。
なお、サハリン付近のカキは海底一面に延々と広がっている

樺太周辺の大陸棚の地下には、豊富な原油、天然ガスが埋蔵されている。近年は、サハリンプロジェクトとして海底油田の開発が進められている。

2009年04月06日

インディーズ

インディーズ (indies) とは英語のindependence(独立)を語源とする語であるindieの複数形を発祥とした、日本でのみ扱われる用語。正確な英語の用語であるインディーと同義。大手(メジャー)に対して中小のものをマイナーというが、そのマイナーの中でもメジャーに資本関係や人的交流などで系列化されていない、独立性の高いものを指す。

海外ではインディーズに相当する用語は単数形のindie(インディー)が使われており、複数形のindies(インディーズ)では英語圏では東インド諸島を指すので注意が必要である(参照:en:Indies)。よって、インディーズ・ムービー、インディーズ・ミュージックなどという使い方は、和製英語的で、世界的には全く正しくない。

音楽: 音楽の商業活動において、大手制作会社(メジャー)に所属しない会社、及びそのアーティスト。(後述)
映画: (欧米に置ける事情は後述)日本においても同名の映画制作会社が存在する。→インディーズ (映画会社)
アダルトビデオ: 自主規制作品。一般的には ビデ倫・ソフ倫の審査を受けていないアダルトビデオメーカーおよび作品を指す。ただし、現在ではアダルトビデオの売上高1位(北都)、2位(ソフト・オン・デマンド)のメーカーが「インディーズ」であり、市場のシェアでもビデ倫・ソフ倫を上回っていることから、「マイナー」という意味合いは薄れている。→アダルトビデオ#倫理審査団体と「インディーズ」
政治: 大政党に所属しない諸派・無所属の独立系選挙候補者(すなわち泡沫候補)をインディーズ候補と呼ぶこともある。
プロレス: 中小規模のプロレス団体。日本では大仁田厚が設立したFMWの成功以降、全国に次々と旗揚げされる。地域密着などメジャーとは一線を画した独自の機軸を打ち出している団体が多いのが特色。
ファッション: 独自デザインの衣服・宝飾品を既存の会社・流通ではなく自店やインターネットなどで販売する若手デザイナーなどのブランドをインディーズ・ブランドという。

ある経済業種において寡占が進むと、資本力のあるものをメジャー、その他をマイナーと分類し、さらに、マイナーの内、独立性が高いものをインディーズというようになる。メジャーが利潤を追求し過ぎ、収益の高い製品のみに注力して製品の種類が減ってしまったり、新製品の開発コストを減らして新製品の質が下がってしまったりすると、メジャーの製品が売れなくなり、インディーズの製品の売り上げが上がることがある。ただし、メジャーのように製品流通がしっかりしていないインディーズは、流通範囲が限定されることが多い。

世界の映画・音楽産業におけるインディー [編集]
欧米での音楽では、ビッグ・フォーと呼ばれる四大企業(ユニバーサルミュージック、ソニーBMG、ワーナー・ミュージック、EMI)、映画ではハリウッドのメジャースタジオ6社(ディズニー、ソニー・ピクチャーズ、パラマウント映画、20世紀フォックス、ユニバーサル映画、ワーナー・ブラザーズ)の傘下に属していない会社を指す。

音楽・映画産業のような新しいもの、新鮮なものを消費者が常に求める業種においては、メジャー・レーベルの音楽・映画のみが売れ続けることは難しい。メジャーの取り揃える楽曲やアーティストが固定化したり、目新しさがなくなったりして消費者を満足させられなくなると、売り上げが下がってしまう。

特にアメリカの映画・音楽産業は販路が多国間に広がることが多いため、アメリカ国内の地域・民族差、世界での地域・民族差を利用して、販売時期・上映時期に差(タイムラグ)を作ってみたり、アーティストのツアーや俳優の販売促進ツアーなどで売り上げを平坦化させたりして、質の変化があっても業績の維持を図ることが出来る。

アメリカにおけるインディーズ・レーベルの歴史で重要な会社にチェス・レコードがある。俗悪なものとしてメジャー・レーベルが避けていたリズム・アンド・ブルースやロックンロールなどの音楽を積極的に取り上げ、アメリカ全土のポピュラー音楽としての地位を固めることに成功した。この時期の出世頭に、チャック・ベリーやマディ・ウォーターズらがいる。

この後も欧米ではサンクチュアリ・レコードなど有力なインディーズ企業が誕生し、メジャー/マイナーという垣根は低いものとなっている。IFPIの報告によると、インディーズ・レーベルによる音楽関連の売上高は全体の28.4%に達している(2005年8月)。

映画界においては、制作費を出資・調達するプロデューサーや映画会社などの圧力を避けるために自己資金で製作を行う事がある。その最も極端な例が『スター・ウォーズ(SW)』シリーズで知られるジョージ・ルーカスで、キャラクタービジネスで巨万の富を築いた彼は、SW新3部作では制作費を自ら出資、製作において絶対的な権限を握った事から、「世界で最も贅沢なインディーズ映画」と言われている。

パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

2009年03月22日

バキュームフォーム

バキュームフォームは、直訳すると「真空成型」となる。薄い熱可塑性樹脂の板を熱して軟化させ、木などで出来た元型に密着させて成型する手法である。 バキュームフォームを行うための機材は、樹脂板を熱するヒーター、樹脂板をセットする枠、元型を置く台、空気を吸引するための真空ポンプから成る。元型を置く台には無数の小穴が空いており、その下に真空ポンプから導かれた吸引ダクトが装着されている。まず、枠に樹脂板をセットし、ヒーターをかぶせて熱する。樹脂板が軟化したらヒーターを離し、元型を乗せた台の上に枠をかぶせ、真空ポンプを作動させて枠と台の間の空気を抜き、元型に吸着させる。樹脂板が冷えて再び硬化したら元型からはがす。こうして元型と同じ凹凸がついた樹脂板が出来上がる(玉子のパックや、縁日のお面を想像するとどのようなものか解りやすい)。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

模型分野では、RCではポリカーボネート製のクリアボディに使用され、スケールモデルでは主に欧米の小規模な模型工房が、プラモデルとして商品化されないマイナーな飛行機などのキットを作る事に利用した。例えば飛行機なら、胴体の右側、左側、翼の上面、下面の元型を作り、それをバキュームフォームする事で、キットがひとつ出来上がる。ただし、原理上、表面に細かい凹凸のあるものは再現しにくく、また、成型品自体は単に凹凸のついた板に過ぎないので、うまく切り抜き、隙間や段差なく貼り合わせるには相当の技量を要する。また、細い棒状の部品も作りにくく、そういった部分は自作する事を要求される。日本では、ガレージキットの創生期にこの手法で作られたものがあった。真空ポンプを用いずに、軟化させた樹脂板を元型に押しつけるだけで成型する手法は「ヒートプレス」と呼ばれ、バキュームフォームとは区別されている。

2009年03月07日

パミャート・アゾヴァ級

帝政ロシア海軍
パミャート・アゾヴァ級(1890年竣工、6,670トン、20.3cm(35口径)単装砲2基、15.2cm(35口径)単装砲13基、17ノット)1隻
リューリク(I)(1895年竣工、11,690トン、20.3cm(35口径)単装砲4基、15.2cm(45口径)単装砲16基、18.7ノット)1隻
ロシア(1897年竣工、12,195トン、20,3cm(45口径)単装砲6基、15.2cm(45口径)単装砲14基、19ノット)1隻
グロムボイ(1900年竣工、11,359トン、20.3cm(45口径)単装砲6基、15.2cm(45口径)単装砲20基、20ノット)1隻
バヤーン(I)1902年竣工、7,835トン、20.3cm(45口径)単装砲2基、15.2cm(45口径)単装砲8基、22.5ノット)1隻
アドミラル・マカロフ級(1906年竣工、7,835トン、20.3cm(45口径)単装砲2基、15.2cm(45口径)単装砲8基、22.5ノット)3隻
アドミラル・マカロフ、バヤーン(II)、パルラダ
リューリク(II)(1906年竣工、15,170トン、25.4cm(50口径)連装砲2基、20.3cm(45口径)連装砲4基、21.5ノット)2隻

アメリカ海軍
ニューヨーク(1893年竣工、8,200トン、20.3cm(35口径)連装砲2基+同単装砲2基、20ノット)1隻
→1911年2月、サラトガと改名→1917年12月、ロチェスターと改名
ブルックリン (1896年竣工、9,215、20.3cm(35口径)連装砲4基、20ノット)1隻
ペンシルヴァニア級(1896年竣工、9,215、20.3cm(40口径)連装砲2基、22ノット)6隻
ペンシルバニア、ウエスト・バージニア、カリフォルニア、コロラド、メリーランド、サウス・ダコタ
テネシー級(1896年竣工、9,215、25.4cm(40口径)連装砲2基、22ノット)4隻
テネシー、ワシントン、ノース・カロライナ、モンタナ

イタリア海軍
マルコ・ポーロ(1894年、4,580トン、15.2cm(40口径)単装砲6基、17ノット)1隻
ヴェットール・ピサニ級(1898年、6,720トン、15.2cm(40口径)単装砲12基、19ノット)2隻
ヴェットール・ピサニ、カルロ・アルベルト
ジュゼッペ・ガリバルディ級(1901年、7,350トン、25.4cm(40口径)単装砲+20.3cm(45口径)連装砲1基、19.7ノット)3隻
ジュゼッペ・ガリバルディ、ヴァレーゼ、フランチェスコ・フェルッキオ
ピサ級(1909年、9,960トン、25.4cm(45口径)連装砲2基、19cm(45口径)連装砲4基、23ノット)2隻
ピサ、アマルフィ
サン・ジョルジョ級(1910年、9,832トン、25.4cm(45口径)連装砲2基、19cm(45口径)連装砲4基、23.2ノット)2隻
サン・ジョルジョ、サン・マルコ

チリ海軍
ジェネラル・オヒギンス(1898年竣工、8,500トン、20.3cm(45口径)単装砲4基、15.2cm(40口径)単装砲10門、21.6ノット)1隻

日本海軍
浅間型(1899年イギリス、アームストロング社造船所にて竣工、9,700トン:、20.3cm(45口径)連装砲2基、21.5ノット)2隻
浅間、常磐
八雲(1900年ドイツ、フルカン造船所にて竣工、9,695トン: 20.3cm(45口径)連装砲2基、20.5ノット)1隻
吾妻(1900年フランス、ロワール社サン・ナゼール造船所にて竣工、9,326トン、 20.3cm(45口径)連装砲2基、20ノット)1隻
出雲型(1900年イギリス、アームストロング社造船所にて竣工、9,775トン、 20.3cm(45口径)連装砲2基、20.8ノット)2隻
出雲、磐手
春日型(1904年イタリア、アンサルド社造船所にて竣工、7,700トン、春日は25.4cm(40口径)単装砲1基、20.3cm(45口径)連装砲1基、日進は20.3cm(45口径)連装砲2基、20.0ノット)2隻
春日(旧アルゼンチン海軍「リバダビア」)、日進(旧アルゼンチン海軍「マリアノ・モレノ」)
筑波型(1907年竣工、13,750トン、30.5cm(45口径)連装砲2基、20.5ノット)2隻
筑波 生駒
鞍馬型(1911年竣工、14,636トン、30.5cm(45口径)連装砲2基、20.3cm(45口径)連装砲4基、21.25ノット)2隻
鞍馬 伊吹
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

ドイツ海軍
フュルスト・ビスマルク(1900年、10,700トン、24cm(40口径)連装砲2基、18.7ノット)
プリンツ・ハインリヒ(1902年、8,890トン、24cm(40口径)単装速射砲2基、19.9ノット)
プリンツ・アダルベルト級(1903年、9,090トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、20.4ノット)
プリンツ・アダルベルト、フリードリッヒ・カール
ローン級(1905年、9,550トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、21.1ノット)
ローン、ヨルク
シャルンホルスト級(1907年、11,610トン、21cm(40口径)連装速射砲2基+同単装速射砲4基、23.5ノット)
シャルンホルスト、グナイゼナウ
ブリュッヒャー(1909年、15,840トン、21cm(44口径)連装速射砲6基、25.4ノット)

イギリス海軍
クレッシー級(1901年竣工、12,000トン、23.4cm(40口径)単装砲2基、21ノット)6隻
アプーキア、バッカント、クレッシー、ユーライアス、ホーグ、サトレッジ
ドレイク級(1902年竣工、14,150トン、23.4cm(45口径)単装砲2基、23ノット)4隻
ドレイク、グッド・ホープ、キング・アルフレッド、リヴァイアサン
モンマス級(1903年竣工、9,800トン、15.2cm(45口径)連装速射砲2基+同単装速射砲10基、23ノット)10隻
エセックス、ケント、ベドフォード、モンマス、ベリック、コーンウォール、カンバーランド、ドニゴール、ランカスター、サフォーク
デヴォンシャー級(1905年竣工、10,850トン、19.1cm(45口径)単装速射砲4基、22.25ノット)6隻
アントリム、アーガイル、カーナヴォン、デヴォンシャー、ハンプシャー、ロックスバラ
デューク・オブ・エジンバラ級(1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、23.25ノット)2隻
ブラック・プリンス、デューク・オブ・エジンバラ
ウォーリア級(1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、19.1cm(45口径)単装砲4基、23ノット)4隻
アキリーズ、コクラン、ナタル、ウォーリア
マイノーター級(1908年竣工、14,600トン、23.4cm(50口径)連装砲2基、19.1cm(50口径)単装砲10基、23ノット)2隻
ディフェンス、マイノーター、シャノン

スウェーデン海軍
フライヤ(1907年竣工、4,980トン、15.2cm(50口径)連装砲4基、22ノット)1隻

ギリシャ海軍
イェロギオフ・アヴェロフ(1911年竣工、9,950トン、23.4cm(45口径)連装砲2、19.1cm(45口径)連装砲4基、22.5ノット)1隻

装甲巡洋艦の発達にともない、イギリス海軍により1908年に誕生した「インヴィンシブル級」は、ついには戦艦と同口径の主砲を搭載するに至る。建造当初は装甲巡洋艦に分類されていたが、後になって巡洋戦艦という新しい艦種名に分類されることとなった。

2009年02月18日

地動説(ちどうせつ)

地動説(ちどうせつ)とは、地球が動いている、という学説のこと。ニコラウス・コペルニクスが唱えた。天動説に対義する学説である。太陽中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。
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古くアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。

しかし、コペルニクス以前にも、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところではピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。また、プラトンも善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていた。

特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことだ。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。ほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった。

広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。これらは初期地動説とも呼ばれる。[要出典]

天動説の優勢
2世紀にはクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化し、以後コペルニクスが登場する16世紀までこれが支持された。プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだ。こうして日常的な生活に関する限り、天動説があれば特に不自由はなくなった。

とはいえ、おかしなところは存在した。例えば

5つの惑星のすべての軌道計算に、必ず「1年」という単位が出てくる[2]
惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭
地球から見た時、火星の奇妙な動きを説明しづらい
惑星の位置予報にも誤差がある
などが挙げられる。しかしなかなかそれらの現象を説明をでき、精密な惑星の位置予報のできる新説は現れなかった。

また、ヨーロッパではギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。

こうした理由で、科学的な難点を含みながらも、16世紀に至るまでずっと、天動説は支持された。

大航海時代
天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。

大航海時代以前、航海は沿岸航海であり地の見える場所しか船を運航しなかった。何も目印のない大海原では、行き先が分からず、航海もできなかった。しかし羅針盤の登場がそれを可能にし、磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったのである。しかし当時の星表には問題がかなりあった[3]。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。

さらにもう1つ問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていた。キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になっており、10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず約300年間放置されていた。

当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年(回帰年)の定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で[4]、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。

コペルニクスの地動説
カトリック教会の司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。 コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。

コペルニクスは没年にあたる1543年、思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。このことが、コペルニクスが(科学的な意味での)地動説の創始者とされる理由である[5]。

またこの業績について、ガリレオ・ガリレイには「太陽中心説を復活させた」と評された。

コペルニクス以降の学説
その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年にグレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は利用されなかった(ただしプトレマイオスの天動説も使われてはいない)。

しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた(コペルニクスの月の運行理論は、アラビアとは独立に再発見したという説もある)。

コペルニクスの地動説
理論
コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、全惑星(地球を含む)の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される(実際の距離は、この時代にはまだ分からない)。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値がそれぞれの値と関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう[6]。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。

コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である。(この時代、天王星や小惑星はまだ発見されていない)公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きの説明がつかず、コペルニクスの著書では、プトレマイオス説でも使われていた離心円が運動の説明に使われた。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはなかった。(実際にはコペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった)

科学的方法論
コペルニクスの時代、天動説で説明し切れないような天文現象はほとんど存在しなかった。(ときおり観測された彗星を除く)現代科学では主に、説明のしきれない現象を説明するために、新たに学説が登場する[7]。しかし、コペルニクスの説の登場の仕方は、明らかにその後の科学体系の構築の手順とは異なっている。

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質問の要約:その後の科学体系とどう異なるのか

コペルニクス後の地動説
コペルニクスの後、地動説に同意する天文学者はなかなか現れなかった。しかし、当時の学者がより古いものを正しいものと考え、新しいものを排除しようとした、というのは若干史実とは異なる。支持者が多く現れなかったのには明確な理由があった。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかったからである。計算に必要な値も、著書のあちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であった。当時の多くの天文学者が欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。

その後、1551年に、エラスムス・ラインホルトが、コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった(実際には、わずかだがプロイセン星表のほうが誤差が小さい)。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。

それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。似た他の方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説を使用しても、同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の絶対性は大きく揺らいだ。

ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった。ケプラーはブラーエの助手であり、師の膨大な観測記録から1597年、惑星軌道が楕円軌道である事を発見し、コペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。当時、コペルニクス説の発表から50年以上経っていたが、はっきりと地動説に賛同した天文学者は、結局、ケプラーとガリレイの2名のみであった。

古代中国の「地動説」
古代中国においても、独特な「地動説」が存在した。『列子』の「杞憂」の故事の原文には「われらがいる天地も、無限の宇宙空間のなかで見れば、ちっぽけな物にすぎない」(夫天地、空中一細物)とあり、当時すでに、宇宙的スケールの中では「天地」でさえ微小な存在だという認識があったことがわかる(ただし、古代中国人は「天地」が実は「地球」であることを知らなかった)。漢代に流行した「緯書」でも、素朴な地動説が散見される。例えば『春秋』にこじつけた緯書には「天は左旋し、地は右動す」(天左旋、地右動)、「地動けば則ち天象に見(あら)わる」(地動則見於天象)とある。『尚書』(書経)の緯書に載せる「四遊説」は、大地は毎年、東西南北および上下に動いている、という奇怪な地動説であるが、「大地は常に移動しているのだが、人間は感知できない(原文「地恒動不止、人不知」)。それはちょうど、窓を閉じた大船に乗っている人には、船が動いていることが知覚できないようなものだ」とあわせて説いている点が注目される。唐の柳宗元も、こうした中国独特の地動説をふまえて漢詩を詠んでいる(「天対」)。 上述のとおり、西洋のHeliocentrism(太陽中心説。現代中国語では「日心説」)の訳語として「地動説」は不適切であるとする意見もある。古代中国の「地動説」は、Heliocentrismとは異質の宇宙観ではあるものの、「地右動」「地動則見於天象」「地恒動不止」など明確に「地動」を説く、文字通りの地動説であった。

地動説と日本
徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。医者の麻田剛立が1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。

地動説のもたらしたもの
地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を科学革命の時代とも言うのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。今でも「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である。

ガリレオ裁判
ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。代表的なものは木星の衛星で、この発見はもし地球が動くなら、月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測。太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。

ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。地動説を唱えたガリレイは、1616年と1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。

ガリレオ裁判以降
たとえガリレオが異端の判決を受けたとしても、当時のローマ教皇にはイタリア国外での権力は事実上なかった。ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。コペルニクスの説はその主張に反して周転円を含む不完全なものであったので、ケプラーは観測記録などからこれを楕円軌道に修正した。さらに『ルドルフ星表』を作り、1627年、公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。

しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥が何故取り残されないのか、地球が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化することにより、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となったのである。

蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた。

地動説と宗教
地動説の解説の際、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害された、という主張がされるが、これには異議をとなえる意見もある。このため、両論を併記する。

迫害されたとされる理由
ニコラウス・コペルニクスは、迫害を恐れ、説の完成後も30年に渡って発表をためらった。発表も死の直前であった。
『天体の回転について』は、迫害を恐れる印刷業者によって、「純粋に数学的な仮定である」という但し書きが著者に無断でつけられて刊行された。
発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった。明らかに正しいはずの地動説に対して天文学者たちがこのような行動をとったのは、迫害を恐れたためである。
マルティン・ルターは、コペルニクス説について、「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べ、地動説を否定した。結果、プロテスタントでも、地動説はアイザック・ニュートンの登場まで迫害の対象となる。
地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは、1600年に火刑に処された。
ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために迫害された。
1616年にローマ教皇庁は地動説を禁じた。
1633年に時のローマ教皇ウルバヌス8世は、自らガリレオ・ガリレイに対する第2回宗教裁判で異端の判決を下した。この背景には三十年戦争によるカトリック勢力の回復策が要求されていた事が挙げられる。
『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から禁書にされた(後述するがこれは誤り)。
以上の諸点では、二つの論旨が入り交じっている。「地動説が教会から禁止された」ということと、「教会が実際に地動説を信じる者を迫害した」ということだ。前者は正しいが、後者は必ずしも正しくない。教会は地動説を蹴落とそうとしたが、実際に蹴落とすためには蹴落とすための権力を要する。以上の諸点では、この二つのことが混同されている。そのせいで、論旨としては、必ずしも正しいものではない。

反論
これに対し、地動説への迫害と思えるものは、単にガリレオがイタリア内での権力闘争に巻き込まれたためで、ガリレオを迫害するために地動説が理由に使われただけだという主張もされる。この理論の根拠は次のとおり。

コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである。
コペルニクスの地動説は、写本の形で1514年ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前になるはず(刊行が禁止されるはず)である。
コペルニクスは、死期が近づく前に、自説の解説本をプロテスタントであった弟子のレティクスの名で刊行しているが、両者ともに迫害を受けていない。
『天体の回転について』には、ローマ教皇への献辞がある。当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである。
グレゴリオ暦への改暦に際して、ローマ教皇グレゴリオ13世が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した。(もちろん、他の学者の数値も使用した)
プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである。ルターが地動説を批判した理由は、たんに地動説を唱えたコペルニクスがカトリック教会の司祭だったからである。またルターは総じて人文主義などの古典や自然学の研究には批判的であった。
『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである。プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった。これが影響して無断で前文が書き足されたと考えられる。
地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、天動説で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである。その証拠に、ヨハネス・ケプラーがもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた。
ジョルダーノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、他にも激しくカトリック教会を批判したためである。また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない(天体計算などを行っていない)。ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽はその他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、また宇宙には特定の中心はなく、その意味で地球も特別な星でないと述べた部分である。もちろんブルーノのこの説は正しいし、当時同じように考えていた天文学者もいたと考えられているが、そう主張する者は当時はまだいなかった。
ガリレオ裁判は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために、政敵がしくんだ罠であり、地動説はそのための理由に使われただけである。その証拠に、地動説を唱えて異端とされた人物は、ガリレオ以後、誰もいない。またガリレオ以前にもいない。(ブルーノの有罪容疑にははっきり地動説とは書いてない)この時代、ローマ教皇庁が地動説を禁じたのは事実であるが、これはガリレオを有罪にするために、先に理由をつける必要があったためである。
ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学の問題については教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した。この事がガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながったと言われる。実際、時の教皇ウルバヌス8世は当初はガリレオを支持していたが、その後は掌を返したようにガリレオを非難する声明を何度も発した。
『天体の回転について』が、ローマ教皇庁異端審問所から禁書に指定されたという事実はない。この書は、1616年、ガリレオ裁判の始まる直前に、閲覧一時禁止の措置がとられただけで、数年後には「純粋に数学的な仮定である」という但し書きをつけて閲覧が再許可されている。一般的に考えて、ローマ教皇への献辞がある書物を数十年後にローマ教皇庁が禁書にすることはありえない。ただし、地動説を元にした本が数冊禁書になったのは事実である。この中にはケプラーの『コペルニクス天文学概要』が含まれるが、コペルニクスの著書は含まれない。
しかしながら、以上の根拠のうちのいくつかは、誤解や曲解に基づいている。たとえば、ローマ教皇の権力は、ガリレオのいたイタリアには及んだが、コペルニクスのいた地域(ドイツないしポーランド)には及んでいなかった。教会がコペルニクスを弾圧しなかったのは、弾圧する気がなかったのではなく、弾圧できなかったからだ。[要出典]他にもいろいろと論理の穴が見出される。

地動説が批判された理由と考えられているもの
聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのは神の偉大さを証明できるので、問題がないが、大地が動いていると主張するのは、神の偉大さを否定することになると考えたとされる。
1539年にマルティン・ルターが、最初に宗教的な問題として地動説を批判した。ルターは旧約聖書のヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。
ガリレオ裁判の最高責任者だったベラルミーノ枢機卿は、大地の可動性を立証できると信じるが、大地の運動を証明できるかは疑問に思うと述べた。
アリストテレスの流れをくむスコラ学の学者は、天動説を唱えたアリストテレスの理論が否定されるのを問題視したとされる。
カトリック教会が、ガリレオの『天体対話』の中で、地動説を唱える貴族に言い負されるアリストテレス派の学者はローマ教皇・ウルバヌス8世をあてこすったものだと考えたとされる。
カトリック教会は太陽が教皇の象徴だと考えていたので、太陽が中心にあるという考えについては問題視しなかったとされる。教皇庁が1620年にコペルニクスの『天体の回転について』に対して訂正を求めたときには、宇宙の中心に関する記述より地球の運動に関する記述が問題視されたと言われている。

2009年01月28日

二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)

二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月16日から12月19日にかけて行われた武田信玄軍と徳川家康軍による遠江北部の二俣城攻防戦である。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

元亀3年(1572年)10月3日、上洛を目指す武田信玄は、徳川家康の所領である遠江に侵攻した。信玄は遠江における徳川方の諸城を東西に分断するため、10月13日には腹心の馬場信春に一軍を預けて只来城を落とさせた。自らも2万2000の軍勢を率いて天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城などをわずか1日で全て落とした。10月15日には、匂坂城を攻略した。これにより、掛川城や高天神城は孤立し、家康方は浜松城にある城兵だけで武田軍と戦うことを余儀なくされたのである。その結果、10月14日に行われた一言坂の戦いで、兵力の多寡により家康は信玄の前に大敗を喫した。

一方、家康を破った信玄は、10月16日に二俣城を包囲した。二俣城は浜松城と掛川・高天神城のちょうど中間地点に位置する遠江の諸城の中でも特に重要な拠点であった。武田軍が補給路を確保するためにも、徳川軍の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要があったのである。

二俣城攻防戦
城兵の抵抗
二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城で、この川が文字通り天然の堀を成していた堅城であった。城将は中根正照、副将は青木貞治であり、城兵の数は1200人ほどであった。一方の武田軍は馬場信春軍と信玄軍が合流して、2万7000人の大軍であり、力攻めも不可能ではなかった。

正照は家康、そしてその同盟者である織田信長の後詰(援軍)を期待して、信玄の降伏勧告を拒否する。このため10月18日から武田軍の攻撃が開始された。しかし二俣城の攻め口は、北東の大手口しかない。しかもその大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとする武田軍の進行速度は遅く、そのために次々と矢弾の餌食となっていった。このため、武田軍は二俣城を攻めあぐんだ。

水の手
11月、信玄の命令を受けて家康の所領である三河に侵攻していた山県昌景が信玄に合流した。しかし、武田軍の攻撃に進展はなく、そうこうしているうちに12月に入った。

信玄は力攻めでは二俣城を落とすことは無理と判断し、水の手を絶つ方法を考えた。二俣城には井戸が無く、天竜川沿いの断崖に井楼を設けて、釣瓶で水を汲み上げていたのである。そこで信玄は大量の筏を作らせて天竜川の上流から流させ、筏を井楼の柱に激突させて破壊するという策略を実行に移したのである。この作戦は見事に成功し、大量の筏に激突された井楼の柱はへし折れて崩れ落ちてしまい、水の手は絶たれた。

信玄は水の手を絶った上で、開城を迫った。中根正照は万一に備えて桶に雨水を貯めるなどの工夫もしていたのだが、1200人もの人数にいつまでも持つわけがないし、運良く雨が降り続けるわけもない。そのため、正照は信玄に降伏・開城して浜松城に落ちていった。こうして、二俣城は信玄の手に落ちたのである。

影響
二俣城攻略は、武田氏と徳川氏の優劣を決定的なものとした。これにより、日和見を決め込んでいた飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの地侍のほとんどが信玄に従うことを表明したからである。

これにより信玄の次の標的は、家康の居城・浜松城となり、12月22日の三方ヶ原の戦いへと突入していくことになる。

岩村城の戦い(いわむらじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)に行なわれた武田信玄軍と織田信長軍の岩村城をめぐる戦い。後に信玄没後の天正3年(1575年)にも武田勝頼軍と織田信長軍との間で行われている。

元亀3年(1572年)の戦い
元亀3年(1572年)10月3日、上洛を目指して西上作戦を開始した武田信玄は、家臣の秋山信友に信濃の軍勢5000人を預けて織田信長の所領・東美濃に侵攻させた。標的は東美濃の要衝・岩村城であり、この城は美濃・信濃・三河の国境付近に位置し、信長の居城・岐阜城からも指呼の先にある戦略的に重要な拠点であった。当時の城主は「遠山七頭」として東美濃で勢威を振るった遠山景任で、信長の叔母の婿であったが、秋山信友の侵攻直前に病死した。

このため、信長は5男の坊丸(織田勝長)を遠山家の養子として送り込んだが、坊丸は3歳の幼児であったため、実際の城主は信長の叔母で景任正室のおつやの方が務めた。城兵は1300人であったが、岩村城は標高721メートル、比高153メートルの山上に築かれた堅城であり、精強武田軍の力攻めでも簡単には落城するような城ではない。

そこで秋山信友は奇策を用いた。信長の叔母・おつやの方と結婚して婿として入ることで岩村城を我が物にしようと考えたのである。おつやの方は信長の叔母だが、信長より年下であり、さらに絶世の美女だったと伝わっている。一方のおつやの方も当時の信長が浅井長政や朝倉義景ら信長包囲網の諸勢力との戦いのため、後詰(援軍)を岩村城に派遣できるような余裕がないことも知っていた。後詰の無い籠城戦は自殺行為であり、11月14日におつやの方は秋山信友に降伏して結婚し、坊丸は人質として甲斐に送られた。

岩村城の陥落に危機感を覚えた信長は、東美濃にある親織田派の豪族に動員令を発し、12月28日に岩村城奪還を目指して反攻させたが、岩村城南方の上村において秋山信友に敗れた。

天正2年(1574年)の戦い
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は上洛半ばで病死した。このため、武田家の家督は4男の武田勝頼が継いだが、その勝頼は信長をさらに圧迫するため、天正2年(1574年)1月27日に岩村城に進出して明知城を包囲した。

このとき、信長公記や甲陽軍鑑によると、武田軍6000人に対して織田軍は6万人という後詰としては異例の大軍を率いたとされているが、当時の信長の動員兵力を考えるとこれは誇大数字であると思われる。それに信長は嫡男・織田信忠と共に2月5日に出陣しているが、到着前の2月6日には明知城で一部の家臣の裏切りがあって落城したため、信長は東美濃の高野城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置して岐阜に撤退している。

天正3年(1575年)の戦い
天正3年(1575年)5月21日、武田勝頼は長篠において織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、山県昌景・馬場信春ら多くの重臣を失った(長篠の戦い)。このため、織田・徳川による武田反攻が始まることとなる。

信長は嫡男・信忠に軍を預けて岩村城に侵攻させた。しかし信友は兵力で圧倒的に不利であったにも関わらず、さすがは武田二十四将の1人に数えられるだけの名将だけあって信忠軍を破った。しかし今度は信長自らが岩村城に侵攻してくると、さすがの信友も防ぎきれず、さらに長篠で大敗を喫した武田勝頼からも後詰が派遣されることが無かったため、信友は自らの命と引替えに城兵を助命することで信長に降伏を申し出た。

しかし、自分の叔母を自らの妻にして岩村城を乗っ取ったことを憎悪していた信長は、信友との約束を破棄して城兵を皆殺しにし、信友とおつやの方は美濃に連行して長良川の河原で逆さ磔の極刑に処したのである。

2009年01月20日

宣伝活動の一つで、放送や新聞

日本の広告費は、経済産業省の特定サービス産業動態統計や、電通の発表資料でみることができる。

2004年の広告費は、特定サービス産業動態統計では5兆4,684億円、電通資料では5兆8,571億円となっており、概ね5兆円後半程度と思われる(特定サービス産業動態統計は額ベースで全国の7割超の事業所をカバー。電通資料は自社取引に推計を加えたものとなっている。双方のカバー率及び推計に違いがあるため、値には差がある。一般的にニュース等で広告費として取り上げられるのは電通資料の値)。傾向として、主要四媒体広告(テレビ、新聞、雑誌、ラジオ)はテレビ以外は低迷、その他の広告では、インターネット広告(サーチエンジン連動型広告)が大きく伸びていることがあげられる。

鉄道駅、空港、桟橋など交通施設、敷地での掲示
車両内中吊(吊り広告)、広告枠への掲示(鉄道車両、バス、タクシー)。
広告貸切列車:ADトレイン、GreenBox、TOQ-BOXなど。
ラッピング広告(ラッピング車両):バスや電車、飛行機の機体外部全体を利用した広告。
トラック広告:トラックの荷台部分に看板を載せ、宣伝内容や音楽を流しながら人の集まる場所で宣伝活動をする媒体。
静止ホイール
乗車券、搭乗券への広告
沿線誌、機内誌
駅(停留所)の案内放送
常時または一定期間、屋外で公衆に表示される看板類である。屋外広告物法、建築基準法、道路交通法や条例などにより制限がある。

電光掲示板、大型映像ビジョン:一般的にOut Of HomeMedia(OOH)と呼ばれる大画面映像媒体。
電柱広告
主に都市部のビルやマンションなどの屋上に設置された大型の看板(ネオンサイン、アドボードなど)。英語ではビルボード(billboard) という。
野立て看板:主に街路に設ける看板のこと。鉄道や幹線道路沿線の田畑に設置される場合もあり、これらは交通広告に含む場合もある。
野球場、サッカー場など
民家や商店の外壁に取り付けられたホーロー看板(1960年代まで地方を中心に多く見られたもの)
捨て看板

動く媒体
チンドン屋、サンドウィッチマン
アドバルーン
ヘリ・飛行船広告
スカイバナー広告:ヘリコプターから旗状の広告をつり下げて飛行するもの。1994年にニュージーランドのスカイバナーズ社が開発。日本においては2001年夏期にコニカが神奈川県の海岸で実施。軽飛行機の後部に吊り下げ、飛行中は水平に表示されるものもある。
スタイタイプ・スカイメッセージ:飛行機雲を利用してメッセージを空に描く。日本においては1989年と2005年の夏期に大塚製薬がポカリスエットの広告を実施。
自動車や小型飛行機から拡声器を使った連呼。
アドボード・カー、アドボード・バイク:トラックやオートバイを改造して、荷台の部分に大型の広告スペースを設置した車両(宣伝カー)を、人通りの多い繁華街に走らせる。

その他のSP関連媒体
ダイレクトメール
新聞折り込みチラシ
チラシのポスティング(郵便受けへの投入)
鉄道駅やファミリーレストランなどのチラシラックの設置、フリーペーパー
チラシやポケットティシューの街頭配布
ピンクビラ(風俗斡旋チラシ)
電話帳広告
店頭販促物
POP広告
粗品やノベルティグッズの配布
映画館や博覧会・展示会などにおける上映
エコーはがき(広告入り官製はがき)
公衆電話・携帯電話などで音声による広告聴取により無料通話させるもの
ペイパーコール
ゲーム内広告
ブログパーツ

ニューメディア
広告関連の統計では地上波テレビから区分され、「ニューメディア」という項目になっている。1999年に媒体別広告費でインターネット広告に抜かれた。

CSデジタル放送、BSデジタル放送
ケーブルテレビインターネット広告
webサイトバナー広告:成功報酬型広告、クリック報酬型広告など
検索エンジンによる検索連動型広告
メール広告、メーリングリスト広告
ブログパーツによる広告

ダイレクト・メール
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みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

ダイレクト・メールは一般的に郵便・メール・FAXの手段がある。郵便は印刷代・郵送料等のコストが掛かる上送っても直ぐに捨てられてはコストをかけている分損害が大きくなりやすいのであまり良い方法とはいえない。そこでメールやFAXで行うDMが良いわけである。ところがメールはコストがほとんど変わらずに大量発送できるが「未承諾広告※」と書けば法律上問題ないもののたいていプロバイダが迷惑行為と見なして一般的に軽くて「警告」重くて「接続の停止」の処分を受けてしまう。又最近のメールシステムは初期設定は「未承諾広告※」は受信しない設定になっているなどしてなかなか届かないしもし届いたところで大量の広告メールとともに捨てられてしまう可能性が非常に高くてほとんど効果が期待できない。そこでFAXがDMの最適な手段であると言える。現在日本ではFAXでの宣伝活動に対する制限はないので自由に送信できるうえ費用が郵送と比べてとても安く済み、開けずに捨てられることがない。そこでFAXによるDMはとても画期的な手段といえる。

広告の規制
広告の内容については、不当景品類及び不当表示防止法(景品表示法)や薬事法などの法令、業界の公正競争規約などで規制されるほか、各メディアで独自の広告掲載基準を持っており[1]、表現が基準に合わない場合には修正を要請されたり[2]、場合によっては掲載を拒否されることもある。しかし、掲載基準の運用は全体的に甘いため、誇大表現の広告が後を絶たず、特に不動産業や貸金業(中でもスポーツ新聞や夕刊紙などで広告している、トイチと呼ばれる登録間もないサラ金業者)など社会問題を引き起こしている業種も存在する。そのほか、屋外広告物法のような規制も存在する。

業種に対する規制
日本では、法令や自主基準などによる、特定の業種に対する広告の規制もある。

医療機関、医業等(病院・診療所など)の広告は医療法第69条で規制されてきたが(診療科目や診療時間・休診日、住所、電話番号、地図程度しか出せなかった)、2001年に規制が一部緩和された(医師名、所属学会、ホームページURLなど)。

弁護士や法律事務所の広告も、統括組織である日本弁護士連合会(日弁連)の方針で規制されていたが、2000年10月より撤廃された。
主に債務整理、破産手続等を担当する法律事務所を中心に、一般に対する広告が目立つようになった。

かつては銀行など個々の金融機関の広告も規制されていたが、撤廃されている。

一方、タバコの広告は、1990年代以降、財務省令などで規制が強化された。

法規制ではない自主規制では、アルコール飲料(酒類)や貸金業などの広告がある。
特に貸金業の広告は、一般紙や放送メディアでは条件が厳しくなっているか、断られる場合も多い。